産みの苦しみ

ここ数日で、3つ抱えている原稿を仕上げなければならず、産みの苦しみを感じている。いつもそうだが、執筆している瞬間は気持ちが入り過ぎ、押しつけがましい表現になりがちだが、(査読などがあり)時間を置いてから見直すと赤面してしまう。
多くの場合大学教員は自分専用のスペースを与えられ、論文執筆などに集中できる環境や時間を与えられているのだから、それに応えるべきである。「忙しくて論文が書けない」なんていう言い訳はもってのほかである。執筆している時間は最も幸せな時間であることに感謝しなければならない。
それはさておき、京都に来てから早いもので1年があっという間に過ぎてしまった。充実していたと言うべきか、ずっとバタバタしていたと言うべきか。いずれにしても、ベストを尽くすのみである。
隣の建物では何やら総長の改革に反対する運動が声高に行われている。京大らしいといえばそうである。今回の論点は大学の「教養教育」である。実は私は「教養教育」を受けたことがない、珍しい経歴の持ち主である。理由は高専出身だからだ。もちろん高専にも教養らしき科目はある(法学、倫理、経済学など)のだが、学校教育上高専というのは「深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成することを目的とする」わけなので、明示的な「教養教育」がないということになっているらしい。
もちろん教養教育は大切とは頭では分かっているつもりである。しかし何か釈然としないのは私のこういう経歴が関係しているのかもしれない。今回の騒動に関する私の意見はたった一つ

「これまでの総括なしに前進なし」

である。
あ、タイトルと関係ない話になってしまったがお許しを。

投稿日:
カテゴリー: 研究

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です